シーズプログラム東京 第2回
数寄和 |
2011/10/21(金) – 23(日) |
金 13:00 – 20:00 / 土日 11:00 – 19:00
シーズプログラム 第2回は柴田智明による作品展を開催いたします。
「原始」
独自な戯画のようなゆるい描線は多くの日本人の少年たちが抱くような漫画家になりたいという一般的な夢に触発される中でドメスティックに育まれました。 それはマンガ家を目指していた身内に囲まれて育った作家としての奇形性です。自分を含めたそんな子らが現実に漫画家になろうとするなんてとても日本らしくてジャンクな事態です。 彼等の内の何人が本気でマンガ家になりたかったのか?そして意志をもって前進したのでしょうか?
大半の彼らは集団で一人遊びのようにマンガ家を目指すふりをすることで持て余したモラトリアムに向き合おうとしていたように見えました。
それはファンなのかクリエータ―なのか生産側と消費側どっちに成りたいのかよく分からない局面です。その無重力的な未分化な空気に囲まれることは楽でありながらもひやっとした苦痛だった気がします。 わたしはそのなかで絵を熱心に未分化に描いていました。執着し描く姿はよくわからない道徳に守られました。未分化な意味合いでスタートした絵を描くというアイデンテティーは私のオリジナルになりました。 オリジナルであればあるほど守られるのを私がその過程で知ることが出来たのは収穫です。
マンガ家になりたかったのは本音ですが、気分的にあてのない努力を地道に醸すにはどこか冷め、頭の回転も鈍く無理だったと思います。
相応な模倣を拒んだマンガのような描画感覚は自立する職業的なマンガにはならないどころかオウンゴール的に意に反するものです。
社会は快適かつ安全に流通という仕事を連携し生きているからです。その普遍性こそ強力で感覚的であり無意識の領域にも根差しています。
一方で世の中はジャンルを越境するものをアートなものと観る一面があります。私にとってそれは楽園です。
戯画という呼び名が古いマンガの呼び名です。鳥獣戯画などです。
時系列をさかのぼり、それらが何故か豊かなのは確かめることが出来ます。
鳥瞰図的に私の落書きのような絵が同一の人間的豊かさを目指す性格のものだと知れるのではないでしょうか。 理路整然と現代、革新、マンガ雑誌や日本画、平面芸術といい明るく銘打ってしまうと、暗がりの未知なカオスという名の可能性の萌芽は絶たれていきます。 それをモダニズムだといって自画自賛的に美しがる機運も私はその快適さも不自由さも浸かっていて知っています。
だからこそ言えるのは不明瞭な現実の中で守らなくてはいけない保守性とは、作家だからできる生を豊かに生きようという行動や、人間の隠れた血統だと言えるのではないでしょうか。
なぜ今もって現代を生きる私が作家として生きるのに他者によってジャンル分けされた土俵に上がることを歓喜するのでしょう。
自己実現といった覚えさせられた社会のルールにのっとり勝つことが甘美であるということなのでしょうか。
私が行うべき作風のヴィジョンが幸運にもあぶりだされます。 それに徹することが私に課せられているのだとわかってきました。 それが継続されると独自のテクニックが生まれます。 その作家としてのアイデンテティーを助長するものが、私にとっての日本画です。 それが発生した時、特筆すべき秀逸さは洋画と差別化された点です。 このことが私にも多くの先人にも可能性を作ったと思っています。 洋画は洋画として分離し日本画が守ったものとは一神教の国々とはことなる気質であり意地です。
天井画、屏風、膠、絹、和紙、天然顔料といった目に見える歴史です。
現代でこそ日本人らしさは精神的なものですが物理的な側面や産業的な側面が現実的にその独自性を必然性としてとどめていたはずです。
しかし生活が様変わるとその幻想性は増大します。もはや必然性を逸脱し、風景から飛躍することでしょう。
日本という辺境でドメスティックに育まれた素質や感覚を頼りに策略らしい策略を立てない、それが演技ではない現実を創出するはずです。
そうすることでしかグローバルな世にあって常識的なモダンな生活を送る現代の常識に囚われた普遍的な市民である私が原始を凌駕する非凡な作品を作ることが出来ません。
日本画がそれを助長します。原始という言葉が示すものはもはや幻想の中でしか実現しません。 どこを見ても原始人はどこにもいません。 幻想か妄想の他になにが美しいというのか分かりません。 私にとって美や認識は夢や亡霊みたいなものです。 私がやっている作品が実際にプリミティブな表現か?という大きな疑問があります。 本当はF1カーのようにより複雑で新しいのかもしれない。
その齟齬な感じが作品の価値を高める足がかりだったりしませんでしょうか。
私は日本画を描いているというからには私が描くことで日本画が貼られたレッテルを脱衣していく必要があるのだと思っています。
それは現代美術として観られた時も同じ姿勢であるべきだと思っています。それが目指すのは耽美でディープな原始さなのかもしれません。
優れていれば独走であり独想であることは独りよがりに終わらないはずです。
私の作風は日本画とドメスティックなかわいい落書きが融合されなおかつ絵画性をもつもので、個と他者との拮抗を可視化するようなポストにあります。 夏目漱石の小説に見られるような「自我」と日本画は、時を同じくして近代化の過渡期から現れて、現代では加速するメディアの開発で意味や存在理由と概念自体のありかたが変形しているかもしれません。
現代の軽くてミニマルでモダンな時代精神の渦中では、身内が私にとっての重苦しい他者であり共同体です。このグローバル経済な現代を要領よく生きていくにしても、不意に歪んだ自我が出血するのは必至です。つまりいまや甘美であり幽玄な存在の日本画とかアートに亡命したいと思っているのです。
作家略歴
1981年 東京都生まれ
2005年 武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒業グループ展
2011年 2011波浮港現代美術展波浮小学校、東京都伊豆大島
2011年 羅針盤セレクションhope2011 アートスペース羅針盤、東京都
2011年 BankART1929 Artist in Residence 2011BankARTStudioNYK、神奈川県
2011年 上野の森美術大賞展上野の森美術館、東京都
2010年 アーティストイン塩飽本島~晴れに耕す、そしてアートギャリ―アルテ、丸亀市本島、香川
2010年 新しい墨の可能性アートスペース羅針盤、東京
2010年 トーキョーワンダーシード2010 トーキョーワンダーサイト渋谷、東京
2009年 クロスカレント#2日米作家交流展L.A ArtCore、ロスアンゼルス
2008年 菅盾彦大賞展倉吉美術館、鳥取県
2006年 ラストスパートギャラリーQ、東京都
2006年 第1回ビエンナーレうしく牛久市生涯学習センター、茨城県
2005年 GEISAI#8 東京ビッグサイト、東京都
2005年 post 戦後?アンデパンダン展ギャラリーアぺル、東京都個展
2010年 柴田智明展ギャラリーQ、東京都
2009年 富井ゲレロウが語るPYTアートスペース88、東京都
2008年 柴田智明展ギャラリーQ、東京
2007年 柴田智明展ギャラリーQ、東京都
2007年 柴田智明展アートスペース羅針盤、東京
2006年 柴田智明展Part2ギャラリーQ、東京都
2006年 柴田智明展Part1ギャラリーQ、東京都